新年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。
 ご報告が遅れていましたが、二回試験(司法修習の卒業試験のようなもの)も無事通り、昨12月18日付で正式に弁護士になりました。
 昨年鹿児島を起点に訪れた各地の様子や、まだ記事にしていない海外の様子なども、順次更新していきたいと思っています。
 正式に仕事を始めると忙しくなりそうですが、遠くに行くだけが旅でもないと思いますので、いろいろと訪れて面白かった場所を記事にしていきたいと思っています。

赤岩渡船


かつて橋が簡単には架けられなかった時代、渡し船が川を渡る重要な手段でした。しかし、時代は流れ、大きな川にも簡単に橋が架けられるようになり、更に自動車が交通の主役となり、殆どの渡し船は姿を消しました。そんな中、利根川には、三つの渡し船がその最後の名残として、人々の足となっています。


赤岩渡船は、群馬県千代田町と対岸の埼玉県熊谷市(旧妻沼町)を結ぶ渡し船。遅くとも戦国時代には運行していたことが文献に残る、400年以上の長い歴史を持つ渡し船です。現在も、日中は毎日運行しており、県道扱いなため、無料で乗ることができます。


埼玉県側から渡りたい場合は、黄色い旗を挙げます。対岸にいる船頭が、旗が揚がっているのを見て確認して、迎えに来てくれます。デジタル時代の現代に、アナログな通信方法が歴史を感じさせます。


思いの外しっかりと整備された岸壁に横付けされた船に乗り込みます。自転車も積み込むことができます。


青く広がる空に、赤城山の姿が 美しい、秋晴れの利根川を渡ります。


開放的な船で、水面を滑るように対岸へ。


対岸の群馬県側には、5分ほどで到着しました。


着くとすぐに、乗客を乗せて、船は埼玉県側に渡っていきました。


群馬県側から渡る場合には、こちらの小屋にいる船頭に声をかけて渡してもらいます。


歴史ある渡船も、車社会となった今では殆どの人が4km先の橋を車で渡るため、純粋な渡しとしての利用客は少ないようです。去年の3月には千葉県小見川の富田渡船が85年の歴史に幕を閉じていますし、この渡船もいつまで続くかはわかりませんが、利根川の歴史ある名物として、末永く運行してもらいたいなと思います。

佐原


千葉県北東部の水郷地帯の街、佐原は、江戸時代に利根川水運の中継地として栄え、今も小江戸と称される街並みが残っています。









古い街並みが残る地区は小規模ですが、小野川に沿って江戸時代さながらの風景を目にすることができるのは見事です。東京から1時間半ほどの所ですので、天気のよい休日に、ふらっと行ってみるのもよいですね。

鼠ヶ関


羽越国境の街、奥州三関の一つ、鼠ケ関。日本海に面したこの街は、小さな街でありながら、新潟県と山形県の県境が集落内に走る珍しい街です。
経済的には一つの街ですが、行政面では県境に応じており、山形県側の集落内には小学校があるにもかかわらず、新潟県側の家の子供は、遠く離れた隣の街の小学校までスクールバスで通学しているそうです。かつては越境通学も柔軟に対応していたようですが、最近はそうでもないようです。
鼠ヶ関は、山形県一の水揚げ量を誇る漁港で、日本海の地魚を味わえるのも魅力です。日本海側を北上する際に、立ち寄ってみるのもよいですね。



飛島(山形)


飛島は、日本海に浮かぶ山形県唯一の有人離島。周囲約10km、人口250人弱の小さな島です。行政的には酒田市に属し、酒田港から貨客船が出ています。


集落はすべて本土に面した側に、海岸にへばりつくように家々が立ち並び、漁船を構える漁業の島です。



対岸には、美しい鳥海山の姿を望むことができます。この日は快晴で、景色も鮮やかでしたが、飛島航路は、冬は荒れると1週間船が出ないこともあり、飛島は冬の嵐に孤立することになる、そんな厳しい島でもあります。

粟島(新潟)


粟島は、新潟県の日本海に浮かぶ離島、周囲23km、自転車で2、3時間で一周見て回れるくらいの小さな島です。全般的に切り立った崖に囲まれ、美しい海岸線が特徴的な島です。


粟島は、小さい島ながら、粟島浦村という一つの独立した自治体になっています。人口369人の小さい村です。


内浦は、本土からの船が到着する、島の主たる集落で、島内で唯一まとまった平地があり、公共施設、住居や民宿、商店などがあります。


釜谷の集落は、断崖の海岸線にへばりつくように形成された集落で、細い路地が特徴の密集した街並みです。


釜谷には、かつては小学校の分校がありました。今も集会場として使われており、時が止まったような空間があります。


粟島の主産業は漁業で、郷土料理として、焼いた魚を葱、味噌、水とともに、曲げわっぱに入れ、焼いた石を入れて煮るという、わっぱ煮があります。食堂でも食べることができて、大変美味しいです。


粟島には、新潟県本土の岩船港から、高速船とフェリーが就航しており、高速船で55分、フェリーで1時間半で渡ることができます。

東京に戻ってきました

鹿児島での10ヶ月の実務修習を終え、東京に戻ってきました。司法修習最後の2ヶ月は和光の司法研修所での集合修習です。鹿児島生活では、九州に居る間にと九州・南西諸島を巡るのに忙しく、ブログを纏めている暇がありませんでしたが、東京に戻って少し落ち着いているので、順次記事を書いていこうと思います。だいぶ過去のものになってしまった海外編も、何とか手をつけられればいいなと考えています。

北大東島


南大東島の北8kmに浮かぶ北大東島。南大東島と同じく隆起珊瑚の島です。南大東島と異なるのは、かつて燐鉱石が採取されたこと。その関係で、南大東島の南150kmに浮かぶ無人島の沖大東島も北大東村に含まれています。今は北大東島も燐鉱石の採取は行われておらず、かつての工場が廃墟となって残るのみです。


大東諸島は、周囲約300kmにわたって島がない絶海の孤島、海底火山の頂上に出来た隆起珊瑚の島で、周囲はすぐに水深が1000m近くになるため、海の色が違います。沖縄の海がエメラルドグリーンならば、こちらはコバルトブルーといったところ。深い深い青色に吸い込まれそうな錯覚さえ覚えます。


北大東島は、隆起珊瑚の外壁が島内にはっきりと残り、屏風のように聳えます。壁には人の手が入っておらず、大東島固有の生物が数多く棲息しています。


南・北大東島には、4日に一度、那覇から貨客船がやってきます。しかし、南・北大東島には、その島の形状から埠頭が作れず、接岸できる港がありません。そこで、船を岸壁の沖合に係留し、クレーンで荷下ろしをしますが、人も例外ではありません。人も籠に乗せられ、クレーンでつり上げられ、乗船・下船するという、不思議な体験をすることができます。

南大東島


南大東島は、沖縄本島の東方約400km、水深4000mの太平洋上に忽然と姿を現す絶海の孤島。周囲を10mの隆起珊瑚の断崖が囲み、長年人の上陸を拒み続けてきました。そんな島も、明治期に開拓団が入り、一面のサトウキビ畑が広がる島になりました。隆起珊瑚という島の形成上、中央部がくぼみ、周辺部が高くなっているので、水平線が見えず、沖縄の離島にもかかわらず、どこまでも畑が広がる北海道のような風景が広がります。


島には、かつてはサトウキビ運搬用の鉄道網があり、蒸気機関車が島を走り回っていました。現在は運搬はトラックにかわり、収穫の時期になると大型のトラックが島を走り回ります。


大東諸島は、開拓の経緯から、沖縄の他の異なり、琉球文化圏にはありませでした。そのかわり、開拓団の主な出身地である八丈島の文化の流れを汲み、本土式の神社や、漬けマグロと漬けサワラを用いた八丈式の島寿司が見られます。


八女福島


福岡県八女市の中心、福島は、江戸時代末期から明治初期に立てられた、居蔵と呼ばれる土蔵作りの街並みが特徴的な街です。天正15年(1587年)福島城が築かれ、慶長5年(1600年)の大修築とともに城下町が形成され、天和6年(1620年)に廃城となったあとも、八女地方の経済の中心地として栄え、往還道路沿いには、二階建ての大きな商家が軒を連ねる街並みが形成されました。その後、車社会の到来で商業地区としての役割は失いましたが、開発の波に飲まれることなく歴史ある街並みが今に残されています。






八女は、国内有数のお茶の産地。郊外には巨大な茶畑が広がり、市街にも八女茶を売るお茶やさんを数多く見かけます。



町家の外れには、神社の境内に飲屋街が形成された、不思議な一角があります。




福島は、明治期に鹿児島本線のルートから外れ、終戦後すぐ国鉄矢部線が出来たものの、昭和60年に廃止になり、鉄道はありません。筑後福島駅は、現在も駅跡が公園として残り、当時の駅舎が物置として移築され残されています。